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世にタダメシはないことについて

発達障害診療メモ:五十の手習い

ぶくま(はてなブックマーク)で突っ込もうかと思ったのだけれど、字数が足りないっぽかったのでエントリ起こして久々に"本日のURLメモ"をする。

3の問題に関して象徴的なのが、文科省がこの4月から始めた、特別支援教育特別支援教育コーディネーターという名のいじめである。特別支援教育というのは、従来の特殊教育(おおざっぱには身体障害+知的障害)に加えて、自閉症、注意欠陥多動障害、学習障害をも対象に含めた、言うなれば、特殊教育改訂版だが、その活動の中心となるとされている”特別支援教育コーディネーター”たるや、何の支援もなしに官僚の作文だけで始まった特別支援教育を象徴する悲惨な存在だ。苦しくても支えてもらえない人間が,”特別支援教育”などできるわけがない.そんな小学生でもわかる簡単なことさえも理解できない人間が作ったプログラムが,現実に働くわけがない.



なんとなれば、一般の教師が何の手当や特別な処遇もなく任命されるからだ。なのに,その仕事たるや、特別教育支援運営計画の企画立案,運営から始まって,理解資料の作成,校内職員への啓発,保護者への啓発,対象児童の実態把握,調査票の作成,個別支援の実施,数々の組織との連絡調整・・・・ありとあらゆることに関与することになっている.私は850床の病院でたった1人の神経内科医として働いていたことがあるが、それより仕事量は多いだろう。



通常学級への対応だけでも教師は疲弊し,医療現場と同様に崩壊が進んでいるのに,その上さらに特別支援教育か.一体どこの誰がやるのだろうか.



何がこんな悲惨な状態を招いたかといえば、やはりたこつぼの中だけで仕事をしてきた人々ばかりだから、連携とか、調整が、どういう仕事なのか全く理解できていないので、こういうことになる。教育は専門家に任せろ、私は福祉の専門家だ、医療のことはやはり医師でないと・・・そういう事ばかり言ってたこつぼの中に閉じこもり、何か問題が起こると、それは私の専門ではありません(木っ端役人の大好きな科白だ)と馬鹿の一つ覚えを繰り返してきたから、こういうことになる。



自分では何もやらずに暇をもてあましているのが、本来のコーディネーターの姿である。なのに,現行の特別支援教育コーディネーターときたら,そこらじゅうのたこつぼ連中から丸投げされた仕事を引き受けざるを得ない立場に立たされている.これは、虐待でしかない。孤立無援で虐待されている人間が,他人の支援なんかできるわけがないんだ.




(発達障害支援と行政:(2007/10/1)特別支援教育コーディネーターという名のいじめ 3.支援なき特別支援教育介護保険制度のように、広く一般の国民から経費を徴収するわけではないので、新たな人員配置はない。つまり、仕事だけ増えて、金も人も増えない。、より。)

以上、年月日の記載があるので、バージョン違いが出る可能性を考慮し、長いが転載固定しておく。



筆者は冒頭で、特別支援教育コーディネーター」は、一般教員が、手当なしに、日常業務に加えてこなすべき仕事として与えられるものだと述べる。私の見るところ、そここそが最大かつ主要(ほぼ唯一)な問題点である。解決を要する新たな問題点がわかったというのならば、従前の仕事とは別に、新たに人員と予算を投入するのがあるべき対応である。



学校現場は余裕がなくなっていると言われている所、従前と同じ体制ないし投入リソースでさらに仕事だけを増やすとどうなるか。ある程度ならば生産性の向上でカバーしうるかもしれないが、これだけの需要ショックを賄えるだけの余力が学校現場にあるようにはとても思えない。結果、医療現場で起きていると同じような逃散が学校現場でも起きるのではないか。



公立学校には医師に対するのと同じような応召義務がある、かどうかは知らないが、いくら問題児であっても義務教育の対象児を公立校が放校するわけにはいかないだろう。しかし私立校や塾ならそれができる。私が教師なら、リソース投入なしに問題だけは押しつけられる公立校なんかやめて塾でも始めるだろう。"ベテラン教師による、公立校ではできない理想の教育!"とかなんとかいう煽りを付けて。(^_^;)



今のところ、そういう動きが大々的に起きているとか表に出ているといった話はキャッチできていない。しかし、日の丸君が代をはじめとする統制と、たぶんそこから来ているであろう助け合えない職員同士の関係に心を折られて退職した先生の話は耳に入ることがある。

"逃散"は、残った人の負担を増やす。残った人がその負担を担いきれているうちはいいが、限度を超えると短時間のうちに現場は崩壊する。手を打つなら崩壊前でなくてはならない。

筆者は、このようなことが起きる原因は、「たこつぼの中だけで仕事をしてきた人々ばかりだから」と述べるが、私はそれには反対である。本来の「米百俵」精神微塵も理解していない財政当局とそれに負けた行政が、現場に仕事を押しつけて"手は打ちました"という形だけは取り繕おうとしたからだと思う。



私は、有病率6.3%(上記リンク先(2))という立場は取らないが特別に手を掛けるべきだと新たに認識されるようになった子供の割合はその位であるとは考える。この子らの支援を手当てするためのリソースは、新たに用意すべきなのであるから、用意しないというのが間違いなのである。



ここで可能な選択はふたつ。知らん顔するか手を打つかである。少なくとも昔は組織的な支援をしていなかったのだし、手を焼く子らにリソースを割くくらいなら切って捨てて"良い子"にリソースを集中した方がトータルとして見れば社会のためになる、という考えはありうる。



しかしこれは良く言っても全体主義、優生思想というやつであろう。仮に日本国内で認められても、国際的には、わしら野蛮人だかんねと宣言するようなもので、誇り高い日本人にはあり得ない選択である。



捨ててはおけないとなると、必要なフォローをするしかない。財政的に大変だという話はあろうが、本人ないし親の責任でない災難をみんなでフォローすることによって社会が安定化することのメリットは計り知れない。それに、手を掛ければ社会のお荷物からそれなりの荷を持てる大人に変わるであろうから、そうした将来的に生じるだろうメリットを無視して短期的な財政上の利益だけを追い求めるのは考えものなのである。

必要なリソースは投入すべきである。将来ないし教育への投資は社会にとって必要不可欠なのであるし、社会的なリソース、わけても労働力は余っている現状があるのだから、借金してでも(国債で手当てしてでも)手当てすべきなのだ。現場の先生(教師)がたの心が折れる前に、手を差し伸べようではないか。

追記

ぶくまコメントに書いた以外にもネタな突っ込みどころその他が若干あるのですが、大上段に振りかぶって書いたので書けなくなりました。才能不足を痛感します。m(_@_;)m